昭和五十七年七月十三日 朝の御理解

御理解第七十八節 神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄一筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代をのこして子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。

 神のおかげを知りまた神の大恩を知ればと、この知ればという事は実感するという事だと思うですね。話を聞いて神様の御恩徳を聞かしてもらういわば、ああ成程そうだと、皆が分かる事は誰でもわかるのです、けれどもそれは実感として神の大恩を知るという事ね、実感として神のおかげをおかげと知るという事、神のおかげそこから本当の意味においての神恩報謝の心が生まれてくる、本当の神恩報謝のその心にいうならおかげがうけられる、人間も身代も健康も段々約束されてくるわけ、一年勝り代勝りのおかげにもなってくる。
 そういう一年勝り代勝りというような、そのおかげにつがらなかったらねまあだあなたは、わかっとるようで分かっとらないのだという事、神の大恩を分かっとりますというても、わかっとらんのですね、神のおかげを知っとるようであっても、まあだまだ知りようが足りんという事になるのですから、もうこの辺のところは、限りがないと思うんですよね、しかもそれが人間と身代と健康と三代続いたら神の気感に適うと、それが子にも孫にも伝わっていく程しの信心とはね、どういう信心をさして頂いたらよいかという事になりますよね。
 昨日は美登里会でしたから、皆さんのお話を聞かしてもらいましたが、本当にあのうたびたびですけども本当に皆さんの信心のまおかげ体験を聞かしてもろうて感心するのですけれども、昨日ここの合楽の久保山さんがが発表しとられました、お百姓さんですから、もうとにかく田んぼに雑草がいっぱい生えておる、お百姓させて頂いて田んぼに草を生やすような事があっては、これは実意の百姓とはいえないと思うて雑草取りにかからしてもろうた、そして自分の心の中の雑草もこのようにして、取り除かなければならないと思うたと、ここまでの事はたいがいの人は言いますよね、例えば、お雑きんがけをさせて頂きながら、自分の心もこうして磨きあげていかなきゃいけないと、いった事を気づくんですけども、それから先のところが、私は信心も本気で願い求めておらんと、その次ぎの信心がわからないと思うです。
 久保山さんはその次ぎのところを発表されました、一口でしたけれどね、成程、日々御参拝が続いております、もう毎日が今日もどうぞ成行きを尊ばせて下さい、大切にさせて下さいという事、お百姓させて頂きよって畑に雑草が生えておるような事では実意丁寧の百姓とはいえない、百姓は御理念に基づく他はないと、こう言われておってもね、そこで雑草取りにかからせて頂きながら、自分の心の中の雑草もこのようなふうであろうと、取っても取っても限りがない、この雑草取りをさして頂くつもりのような思いで雑草取りをさせて頂きながら感じましたというお話しでした。
 このように雑草が生い茂っては、良いものが生えるはずも実はずもないと思いましたというのです。お互いがね、自分の心の中をのぞいて見ておかげが受けられん、どうしておかげを受けられんだろうかと言うけれどもね、その雑草取りの所までは話を聞けばわかるところです、信心は日々の改まりが第一ですよ、自分の心の雑草を取らなければ、だから本気でその取りにかかった、本気で自分の心を見つめさせて頂いたところからね、成程こういう雑草がいっぱい生えておっては、おかげが頂けんはずだと、自分の心におかげの頂けんはずだというところがわかってくるわけですね、この雑草がある限り、いくら、なら、親先生のよい有り難いお話を頂いてよい種をまいて頂いたと、こういうてもです、それが芽をきらない、芽をきっても、雑草に養分は吸い取られてしもうて枯れてしまう。
 私は久保山さんのその話を聞いてね、もう本当に日々実験実証しよらなければ、わからんところだ発表の出来ない所だと私は思いました。もう草を取る時にね、いつも雑草取りの事、本当に自分の心からも取らなきゃならんおいいますけども、本当に取ってないわかるだけで、天地の大恩も聞けばわかるんだけども、わかってそれが実感として解るということはね、成程こういう雑草があっては物が生えない、こういう心の状態ではおかげが受けられないと気づきました、というところがでけんとね私は、いつまでたっても良いものが生えてこないと思うですよ。
 確かに種はまきよるばってん良い実りにならないというならね、雑草取りであるという事も知ってるんです、取らにやならん事を、けれどもこの雑草があっては良いものは生えない、この心の状態ではおかげが受けられないというものをはっきり掌握してそれを改まって行く、七十八節である七からね、八に代わっていかなきやならないね、一寸とこう七という字を改めてプラスにしていかなきゃいけない、プラスという字十という字になるね、そこに八の字が約束される、広がりに広がる、私、それを聞いた時に本当に、素晴らしいなあと思いました。
 もう日々けいこするものには勝たん、お話を頂いてわかるところまでならだれでん一応に大体わかっているけれども、それを実験実証した者でなからないと、言えないことが有るこれがあっちゃおかげ頂かれんんね、そこでそこに取り組むという事にもなるわけでございます、天地の大恩が解り、天地のおかげをおかげとわかる、金光様の信心者なら皆わかっとるちいうでしょうね、天地の大恩は聞きますから、そりやもう、水一すくいでも神様の御恩徳の表れですと聞くから知ってるです。雑草を取らなん事はわかっとるんです、けどもこの雑草があってはおかげが受けられんとわかった時、初めてその雑草取りの意義がはっきりしてくるんです。
 そしておかげを受けられんのは自分の中のこの雑草のせいであるといういうなら、自分の信心の進め方行き方、改まりの上にこんなにもまだ間違っておる事がわかるわけ、これも丁度、夏期信行が終わって、後でしたが熊谷さんがここでお届けをなさいました。本当の、ま、八十幾つになるお婆さんですけども、もう真剣にやはり求めていかれる方です。どれが本当かわからんけれどもね、これをいよいよ本当な事にならして下さいとこういう、また熊谷さんのお導きで、やっぱ毎日、夏期信行に通って見えます、枝光さんという方、この方はクリスチヤンで、ま、熱心なクリスチヤンだったんですけれども、ある事からお導きを頂いて、金光教に傾倒して行かれる方なんです。
 その方の御初穂にいつも、クリスチヤンですから、クリスチヤン的な表現でね、最善の道をわからして下さいと書いてある、最善の道、私はその二人続けて熊谷さんと枝光さんのお話を聞かせて頂いて、お届けを終わられて退がられた後にまあ二人とも、同じような事を言われたが、本当の事を、と、言われるから本当の事を教えてもわかられないだろう、最善の道を教えても分かられないだろう、と思うたんです、何故かと、私が今思うておる私がこれが本当だと思うておる事を皆さんに聞いてもわけもわからんかもわかりませんそうでしょう、私がこれが本当だと思うておる事を皆さんに言うても、皆さんにはわからんと思うです。
 そしたら神様から、ひらがなで「より」と頂いた、より、と、はあ、より本当な事をわからして下さいという事でございます。真の信心がわかりたい、真の信心がわかりたい、ならこれが真の信心ですよと、私でん、私が今感じておる真の信心を皆さんにいうても、おそらくは分からんと思います、ですから、それで私は思いますのに、これはお道の信心に限った事ぢゃないですけども、自分は真の信心してるんだ、本当の事、これが本当だと思い込んで、そこから一歩も進もうとも高めようともしない程、馬鹿な事はないと思うな、本当でもないものを本当と思い込んでおる、本当の事になったら、本当のおかげが必ず伴うのがお道の信心なんです。真の信心が分かりだしたら、真のおかげが伴うてくるのです。
 伴うてこんけども、これが本当だ、これが真だと言うたり、思うたりしておる、そういう思い込みはいいけれども、これでよいとは思わんという信心がいつもなされなきゃいけない、より本当な事がわかりたいと、願わせて頂く所にね、なら御理解を頂く構えも姿勢もまた、それに取り組む事の上にも変わってくると思うです。そしていうならば、信心の奥処へ奥処へと進んでいく事ができると思うです、より本当な事がわかっていく、ただいかにも最善の道をわからして下さい、本当は事をわからせて下さいといえばよかごとあるばってん、なかなかもってそれでは私は、なかなかわからない、今、私が思うておる事は本当と思うとるけれども、どこにお粗末御無礼があるやらわからない。
 それこそ凡夫の事であいわからずね、一歩でも前進さして下さいというところにです、いうならば教えを頂く本気でそれを改めて行くという事、そこに今まで思うておった天地の大恩、今までわかっておると思うておった神の大恩が本当なものとして頂けてくるようになるね、しかもそれはね、親の代よりも子の代と家繁盛子孫繁盛の道もついてくる人間もできてくるそういうおかげが、私共の信心の過程において伴うてくるおかげを頂きたい、為には、私共がいつもより本当な信心を求めて私が今しておる、これが本当だと思うておる思いというようなものでなくて、いつもより最善な道を歩かせてもらおうとするいきかたを、身につけて頂かなければならない久保山さんの、昨日の発表の中から私は感じた。
 本当にに自分の心の中にこんな雑草があっては、自分の雑草取りが信心だと思うておった、ところがね、この雑草があってはよいものは生えないとわかった、一歩前進でしょう雑草を取らんならんというだけぢゃない、この雑草があっては良いものは生えない、この心があっては成程おかげが頂けんはずだ、というものがわかる時に、そのこれではおかげが受けられんという、その心を、在り方を切り換えていく事が出来るのです。、初めて私は、あの、本当な意味においての神の大恩がまたは神のおかげを知る事が出来るというふうに思います。
 人間と身代と健康、お互いがこい願っておるおかげなんです。けれどもそういう足うたおかげを頂く事の為にいよいよ、より本当な事を、より最善の道を歩かせて頂こうという、いわゆる本気で教えに取り組ませてもらうところにね、いうなら仕事が仕事を教えてくれるように、信心がより本当な信心を悟らせてくれる、わからせてくれるのです。そこに信心の向上があるのです、信心が向上するという事はおかげも向上しなければうそです、一つ昨日久保山さんが発表された、雑草を取りながらね、本当に自分の心からも雑草を取り除こうと、こう、そこまでは、たいがいわかっておるけれども、ならこの雑草があっては物が生えないとわかるところから、本当の信心の構えが出来ると思うですね。
                   どうぞ